南砺市の魅力
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伝統のこと

「福野縞」福野を発展させた綿織物

福野の発展に大きく影響した「福野縞」について紹介します。ピーク時は日本各地で福野で生産された綿が使用されていたことをご存知ですか?歴史的背景と現代で活動する団体をまとめました。

皆さん、こんにちは
なんと南太郎です。

 

弊社スタジオパールでは富山県南砺市利賀の大自然から生まれる“脇谷の水“を販売している地元の企業です!産まれも育ちも富山県南砺市の社長が地元を愛す思いからこの商品は開発されました。

 

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そんな社長が愛す南砺市を全国の皆さんに伝えるため、この「南砺市の魅力」ページでは南砺市の伝統的なお祭りや、新生グルメスポットまで南砺市に関する情報を幅広い角度からお届けします。

 

「南砺市、アツいじゃん」
皆さんにそう思ってもらえるよう日々更新をいたします。どうぞ、よろしくお願いします!

 

突然ですが皆さん、南砺市はかつて「織り文化」が盛んだったことはご存知ですか?
「福野の綿」「城端の絹」「福光の麻」この3つは南砺市の産業や文化の発展の礎なったと言われているほどです。

 

全三回に渡って、南砺市の織り文化についてご紹介をしていきます。
第二回目の今回は「福野の綿」をピックアップ!
福野の綿の伝統継承を目的に活動されている”福野縞の会”にお話を伺ってきました。

 

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福野ってどんな場所?

まずは福野について簡単にご紹介します。

 

市場町として栄えた自然豊かな町

南砺市福野地域は、古くから南砺地方の交易の中心地にある「市場町」として発展してきました。
福野は散居村で有名な砺波平野のほぼ中央に位置しています。

 

栄養満点な土と豊富な水に恵まれ、水田化率が高く、良質な米の産地として知られます。
砺波地方の交通の中心地としての利便性や、伝統産業である繊維工業を中心に発展した町で、近年では積極的に企業誘致をはかるなど、農工商調和のとれた発展を続けています。

 

福野の3大イベント

福野には3大人気イベントがあります!

 

まずは5月。春の宵「夜高祭」
「ヨイヤサ、ヨイヤサ」の掛け声とともに、高さ7mにも及ぶ大行燈が町内を練り回る姿は圧巻です。

 

8月には世界各国から民俗音楽集団を招いたフェスティバル「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド」が毎年開催されています。

 

そして11月には、北陸三県の菊づくり名人の作品を一堂に集めた「南砺菊まつり」が開かれます。
この様に文化と伝統をかけ合わせたイベントが多くあるのも福野の特徴です!


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福野と福野縞

南砺市の旧福野町では、明治から昭和にかけて「福野縞(ふくのじま)」と呼ばれる綿織物が盛んに生産され、日常生活にも幅広く普及していました。

 

福野縞は全国から需要があり日本各地の商人の手に渡っていきました。
それでは福野縞が全国に広がるまでの流れをご説明します。

 

福野で布の生産が始まった由来

この福野縞の発展にはある人物の存在が欠かせませんでした。
その人物の名は「寺嶋屋源四郎」です。

 

江戸時代、加賀藩は幕府から布の生産を命じられました。
すると加賀藩は福野に布織りを命じ、その命を受けた男が寺嶋屋源四郎です。

 

源四郎は越後縮(えちごちぢみ)と呼ばれる織物が素晴らしい出来であることを知り、越後国地方(新潟県)にある工場を視察しにいきました。
その際に、そこで働く職人を雇って福野へ連れ帰りました。そして、その職人が福野の住民に製織を伝授し、福野での本格的な布生産が始まったのです。

 

福野縞が日本各地に広まるまで

福野で布の生産が活発になる中、美濃国(岐阜県南部)では京都から伝わった「菅大臣縞」という布が幅広く普及しているという情報を聞きつけた福野の住民たちは、1820年に新たな職人を招いて菅大臣縞の生産に乗り出しました。
結果、加賀藩の奨励もあって福野で盛んに菅大臣縞が織られるようになりました。

 

明治に入ると、洋服の文化が定着し始め、綿の需要が増加。それに応じて福野縞も生産を拡大し、販売先は全国に及ぶようになりました
ピーク時には織り機の保有台数は9,000台にまでおよび、年間生産量は45万反(45万人分の着物を織れる量)にまで達しました。

 

福野縞の衰退

昭和に入っても福野縞は生産を伸ばし続け、福野は日本でも有数の綿織物生産地として知名度も上がりました。しかし、戦争が始まると原料の綿糸の入手が困難になってきたことから福野縞の生産は次第に低下。更に、この頃からレーヨンなどの絹に似せた人絹と呼ばれる化学繊維が流行したこともあり需要も下火になりました。

 

さらに戦争が激化すると、原料の綿糸が国の統制下に置かれたため、綿織物の代わりに人絹織物に生産が集中。この動きは全国的に広がり、人絹織物が生産過多になりました。国が織物の生産を統制する事態にまで陥りました。

 

戦後になると物資不足も徐々に解消され、同時に綿花の輸入量も豊富になりました。
1951年には統制も解除され、綿織物の生産も再開されました。

 

しかし、1959年になると、白地にプリントをするという技法が主流になり始め、生産のほとんどが白生地に転化しました。
さらに需要が人絹やナイロンなどの化繊に変わったため、染糸を織り上げるという「福野縞」は次第に姿を消し、1975年代以降生産されなくなってしましました。

 

これまでは福野縞の発展と衰退までの流れとなります。
これを読めば歴史的な背景が見えてきたのではないでしょうか。

 

福野縞の会へのインタビュー

南砺市で福野縞の復活に向けて活動している「福野縞の会」の役員である栗山さん、勢濃さんにインタビューを行いました。

 

福野縞の会とはどのような会ですか?

衰退し、失われつつ合った福野縞の伝統を次の世代へと繋いで行くことを目的に活動しています。
毎週火曜・金曜の19〜21時まで伝統的な織り方で福野縞を生産しています。

 

平成28年に発足し、当初の会員数は3人ほどでしたが、現在は8人まで増えました。
織り機も合計4台、所持しています。

 

思い出深いエピソードはありますか?

立ち上げのときはかなり大変でした。まず、機織り機が1台もない状態からスタートしたので、織り機を探すところから始まりました。

 

織り機を見つけた後は、織り方を教えてくれる方を探しました。とにかく手探りに一つずつ課題をクリアしていきました。

 

今後の展望は?

会員の皆さんの腕前も上がって来ましたし、布を作り出すという側面ではある程度、目標を達成できたと思っています。第2フェーズとして、作った布を縫製して商品化していきたいなと思っています。布を加工してくれる人材の発掘と育成に今後は注力していきたいです。

 

福野の発展を支えてきたのは布の生産であるという事実を忘れずに、この素晴らしい文化を残していきたいです。

 

福野縞の会の拠点に潜入

インタビューに続いて、活動の拠点となっている「有川呉服店」さんの1階に潜入して来ました。
本格的な機材がとりそろっており、圧倒されました。

 

活動拠点の紹介

コチラが活動と制作を行っている「有川呉服店」さんの1階の様子です。
年代を感じる織り機が何台も並んでいます。

 

福野縞が織られていく様子が伺えますね。
発色のよい色合いと模様が特徴的です。

 

制作物の紹介

福野縞は、縦じまを基本に、格子状など多様な模様を織り込むのが特徴です。
この模様が今の時代に見ると逆に粋に感じますね。
それでは、福野縞で作られた製品を何点かご紹介します。

 

 

 

まとめ

いかがでしょうか?
福野縞がどのような布でその伝統を継承しようと動いている方の想いを感じることができましたね。

 

スタジオパールでは南砺市の伝統的文化の継承を応援しています!
弊社の商品「利賀の脇谷の水」も名水を後世に残したいという思い出で開発されています。

 

イベント・会議での発注も大歓迎しております!詳しくは、スタジオパールにお問い合わせください。

 

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それではまた次回!!
なんと最高!!